2011年06月14日

個人が意見を表明するという行為について

さっきのコメダの話の続きといえば続きなんですが、話題が変わるので別記事立てます。
ちょっと主張させてもらいますね。


私は要望にしても苦情にしても、なるべく直接伝えるようにしています。そうすれば、聞いてくれることもありますし、そうでなくても私のような意見を持っている人がいるという認知に繋がるからです。特に少数派意見の場合、意見の存在自体を認知しない人が多く存在することを考えると、これは割と重要なことなのです。


日本では気に入らないことがあっても黙って離れたりする傾向が強いと言います。また逆に、あんまり自分勝手すぎる要求をしまくったり、ネチネチとクレームを入れまくったりする人も話題になります。そして、そのようなニュースに触れた人の多くが、何か物申す人という存在をうるさく思って敬遠するようになります。なので、日本に住む殆どの人はその意見の正当性云々よりも、意見を言うこと自体に抵抗感を持ってしまっているのではないかと考えます。「ノイジー・マイノリティ(やかましい少数派)」という言葉があったり、なんとか少数派団体や在日外国人団体などが主張しているニュースを見かけたりしますが、実はマイノリティですら黙っている人も多いのではないかと思います。なので、今話題にしていることはマジョリティ(多数派)・マイノリティ(少数派)両方とも関係のあることです。

しかし、そんな社会で誰が得をするのでしょうか。それは、「何も言わなくても今の世間が味方をしてくれる人」「色々と不都合があるのは知ってか知らずか、とにかく世の中を積極的に変えたくない人」「自分が味わった苦労を他の人も同じように味わえばいいと思っている人」といったところでしょうか。
今の世の中に何か不満を持っているとか、そこまで行かなくても「ここをこうすればもっと世の中よくなるのに」と考えている人の意見とか考えなどと言ったものは、思うだけ・考えるだけでは世の中に出ることは決してないのです。


多くの企業や団体、また行政などにとって、顧客や一般市民の声というのは貴重な資源なのです。なので特に、前述のクレーマーなどのような人達だけに意見を表明する行為の専売特許を与えてはいけないのです。何かの利用客としての意見も政治的・社会的な意見も、ごく一部のなんとか団体や政党だけのものではないのです。

しかも、現代社会は人の往来が激しくなりました。国際化社会とも言いますが、そもそも同じ日本人同士であっても思っていることはそれぞれ微妙に違うのです。だからわかり合えないのではなく、言語能力や想像力などなどをフルに働かせてわかり合おうとするのです。ですから、気に入らないことはハッキリと、また気に入ったこともハッキリと、気付いたら伝えるべき人に伝えるということが大切なのではないでしょうか。また、何か思いを抱えている人が身近にいたら、それを言えるような雰囲気を作ることも大事だと考えます。空気は読むだけのものにあらず、その空気は皆が作っているのです。開放的な空気も、抑圧的な空気も、会社で定時に帰りづらい空気も、それを共有する人が作っているのです。


世間の風通しをよくすることは、一人一人が少しずつ生きやすくなることに繋がります。



「自由・平等・博愛」なんて言葉があります(フランス革命のキャッチコピーですね)が、そういったことを私なりにかみ砕いてみたらこんな感じになるんじゃないかなと思った次第です。

なんでこんなちょっと堅苦しいことをわざわざ言うかというと、その通りに世の中が変わってくれた方が私が得をするからなんですけどね。得をすると言っても別に裏からお金が入ってくるとかそんなことではなく、単にマイノリティ要素が多くて口数の多い人間がちょっと生きやすくなるということです。どういうところが少数派なのかは、まぁついったーやら過去記事なんかを見ていただければある程度分かっていただけるのではなかろーかと思います。


何に関してでもいいんですが、今自分は少数派だと思っている人、或いは多数派だなと思っている人も、この記事を読んで何か考えるきっかけにして下されば幸いです。


posted by 諸葛やか(かんぴんたん) at 00:53| Comment(0) | テキスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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